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〜上諏訪温泉しんゆ 諏訪に魅せられた岡本太郎02~


多大な影響を与えた縄文文化と御柱祭
岡本太郎は、明治44年(1911年)に、漫画家の岡本一平、歌人で小説家・かの子との間に長男として生まれました。18歳から約10年パリに滞在し、ピカソに触発され抽象絵画を制作。その後も、シュールレアリズム、民俗学的思考へと進化していき、戦後は前衛美術運動に傾倒。絵画、彫刻、壁画など多彩な作品を残しました。
昭和26年(1951年)、東京国立博物館で縄文土器を偶然目にしたときのことを「驚いた。 こんな日本があったのか。いやこれこそが日本なんだ。身体中の血が熱くわきたち、燃えあがる」と回想しています。

太郎はかつてパリのソルボンヌ大学で、フランス民族学の父 とも称されるマルセル・モース門下で民族学を修めていました。芸術家としてだけでなく民俗学者でもある太郎は、翌年に、『四次元との対話―縄文土器論』を発表。考古学的な 解釈でなく、縄文土器の造形美、四次元的な空間性、縄文人の宇宙観を土台とした社会学 的、哲学的な解釈を初めて行いました。そして、それまで工芸品という扱いを受けていた 縄文の美を再発見し、日本美術史に縄文が含まれるようになりました。

太郎が初めて諏訪地方を訪れたのは、昭和49年(1974年)のことです。このとき「万治の石仏」に出会って衝撃を受けた太郎は、温泉も好きだったことから、その後40回ほど諏訪を訪れたといわれます。昭和55年(1980年)、昭和61年(1986年)には、御柱祭に参加 。曳行の列に入り、御柱の上に乗り、木落しが行われる寸前に下ろされましたが、死んでもいいから乗りたいと叫んだという逸話も残っています。
御柱祭は、巨木信仰という原始宗教、土地神への祈り、共同体全体での奉仕、命がけの儀式など、縄文的な宗教観・身体性・共同体性が、現代まで生きたまま残っているめずらしい祭りです。太郎の芸術の中心にある「生命の爆発」「エネルギーの噴出」が目の前に起きている御柱祭との出会いは、その後の作品にも大きな影響を与えました。
また、諏訪地方には尖石遺跡、井戸尻遺跡、阿久遺跡といった縄文遺跡が残ることから、 太郎は縄文のメッカと呼び、必ずこの3つの遺跡を訪れたといいます。中でも尖石遺跡では、蛇体装飾、過剰な突起と渦巻きの造形をもつ縄文土器、そして生命の膨張を示す土偶に衝撃を受けました。

太郎は、平成8年(1996年)1月7日、以前から患っていたパーキンソン病による急性呼吸不全により亡くなりました。 「諏訪は、岡本にとって心のふるさとよ」太郎の養女であった岡本敏子さんはこう語ります。太郎があれだけの情熱を燃やし、乗りたがっていた御柱。平成10年(1998年)の春に行われた御柱祭では、木落しで氏子が太郎の遺影を抱いて急坂を滑り降り、太郎の夢を実現したといいます。

《井戸尻遺跡・井戸尻考古館》

《阿久遺跡》

《尖石遺跡・尖石縄文考古館》

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