産まれ故郷の諏訪から東京へ
唐草模様と壺のマーク。これは日本初の文庫本シリーズ、岩波文庫のデザインです。本が
好きと言う人にはおなじみではないでしょうか。岩波書店は、他にも書き下ろし作品によ
る一般啓蒙書シリーズ岩波新書、国語百科事典『広辞苑』の刊行など、幅広いジャンルの
本を生み出し続ける、日本を代表する出版社です。岩波書店の創業者である岩波茂雄は、
一部のインテリだけの趣味であった読書を一般の人々に普及させた人物として知られてい
ます。

岩波茂雄は明治14年(1881年)諏訪市中洲にある農家の家に長男として生まれました。父
義質は温厚方正で、文筆をよくする人でしたが、病弱だったので村役場で働いていました
。母うたは村の婦人会でリーダーとして活躍するほど気丈な女性でした。明治20年(1887
年)に中洲尋常小学校に入学。当時の茂雄は母親に似て元気がよく、成績もよかったとい
われています。中洲高等小学校では、交友会を作って会長になり、日本の国威発揚や海外
進出の是非などを題材とした討論会を行っていました。また、明治維新に関心をもち、西
郷隆盛を崇拝し、また「5箇条のご誓文」を示した明治天皇に対しても尊敬の念を抱いた
のもこのころでした。
明治28年(1895年)に旧制諏訪実科中学校(現・諏訪清陵高)へ入学。けれども翌年、父
親が病死したため、中学を中退しました。しばらくは母親を助けて農業をしていましたが
、学業への志を絶つことはできず、明治30年(1897年)に復学。ここでも茂雄は各種の研
究会を組織し、演説、討論会を行い、登山や運動でも活躍する、活発な生徒だったといわ
れます。

中学卒業後について、茂雄は東京の日本中学を経て、第一高等学校から東京帝国大学に進
むことを希望していました。けれども、岩波家の当主である父親が亡くなったことで、親
戚一同は茂雄が後を継ぐものと考え、猛反対。茂雄は悩みますが、母の後押しもあり明治
32年(1899年)に上京し、日本中学に入学。1年在籍し、自由な校風の中で青春を謳歌し
ました。翌年、第一高等学校を受験するも失敗し、翌明治34年(1901年)に再度挑戦して
、見事合格しました。
第一高等学校では、ボート部で活躍するものの、次第に人生について悩むようになります
。当時、第一高等学校では、いかに生きるべきかなどと、人生を深刻に考える風潮があっ
たといいます。そして明治36年(1903年)、一学年下に在籍していた藤村操が「巌頭之感
」を遺して華厳の滝に投身自殺したことに大きな衝撃を受けた茂雄は勉学の目的を失い、
哲学書を携えて野尻湖の小島に一人で40日間も籠もりました。
→次号も、岩波茂雄の人生についてご紹介します。