こどばの力を活かした教育者
「信濃路はいつ春にならむ夕づく日入りてしまらく黄なる空の色」
これは、アララギ派の歌人、島木赤彦の代表作です。
昭和元年(1926年)、逝去の原因となった胃がん闘病中に詠まれました。教科書や教材にも取り上げられて、ご存じの方も多いのではないでしょうか。

島木赤彦は、明治9年(1876年)12月16日、長野県諏訪郡上諏訪村(現諏訪市)に旧諏訪藩士・塚原浅茅と妻・さいの四男として生まれ、俊彦と名付けられました。父親の浅茅は、維新後には教員となり、諏訪郡豊平村(現茅野市)の古田学校に勤務。赤彦も幼少期を豊平村で過ごしたといいます。当時の赤彦は、5歳で百人一首を暗唱し、古田学校の初等科に入学するなど、腕白者ながらも知性に優れた子供だったといわれます。けれども、9歳のときに、母さいが死去。翌年には新しい母親としてみをが迎えられました。
明治23年(1890年)、諏訪小学校高等科の卒業後は、諏訪育英会(後の諏訪中学校)に入り和歌や俳句をたしなみはじめ、明治25年(1892年)以降は、雑誌『少年文庫』に和歌や新体詩を投稿するなど活躍します。
明治27年(1894年)に、長野県尋常師範学校(現信州大学教育学部)に進学。学内では文芸活動の中心的存在となり、短歌や和歌、『万葉集』に親しむほか、島崎藤村に傾倒し詩作活動も活発に行いました。『少年文庫』『文庫』『少年園』『早稲田文学』『小文学』『もしほ草紙』や新聞『日本』などに短歌・新体詩を次々と発表。「伏龍」の他に「二水」「二水軒」などの号を用いていたといわれます。
当時の赤彦は自身の中に湧き起こる感情や自然への感動を、言葉にして解き放つことに喜びを覚え、「写生」の姿勢に目覚めて、新体詩人としての存在を確立していきました。塚原俊彦ではなく島木赤彦の雅号をも用い始めたのもこの頃です。実家の屋号である「島木」、理想を託した「赤彦」の名を持つことで、新たな覚悟をもって詩人としての道を歩むようになったのではないでしょうか。

明治31年(1898年)、師範学校卒業後は北安曇郡池田会染尋常高等小学校(現池田町立池田小学校)で教員になり、また、下諏訪町高木の久保田政信の養嗣子として同家長女・うたと結婚しました。その後もさまざまな地域の教育現場に立ち、個性の異なる子供たち一人ひとりに向き合い続けました。明治42年(1909年)には、広丘尋常高等小学校の校長に就任。校長になってからも教室から離れず、感性と観察力を磨き、ありのままを言葉にする訓練を行うことで子供たちの表現力を培い、地域全体で子供を育てる土壌を整えようと教育改革を行っていたといいます。
「ことばこそ人を育てる」という信念をもって教育現場に立ち続けた赤彦は、この間も身近なことを題材に短歌を作り続け、独自の短歌の世界を築いていました。
→次号は、引き続き赤彦の人生を紹介します。