歴史に残る諏訪氏の人物

諏訪氏は長きにわたり、諏訪地方を治めてきた一族です。けれども、一族内での反乱や裏切りも多く、なかなか統一されない時代もありました。今回は、激動の戦国時代を生きた諏訪頼満、諏訪頼重、諏訪御料人をご紹介します。
◆諏訪頼満 文明5年(1473年)~天文8年(1540年)
「諏訪氏中興の祖」といわれる諏訪頼満は戦国時代の武将です。文明15年(1483年)、諏訪氏の分裂によって文明の内訌がおこります。これは、諏訪継満(諏訪大社大祝家)と金刺興春(諏訪下社金刺氏)が、頼満の父・政満と兄を居館に招いて殺害し、惣領家の所領を奪って千沢城に立て籠ったことから始まった反乱のこと。その結果、頼満は10歳で家督を継ぎ、約56年間にわたって、諏訪継満を中心に高遠継宗(高遠氏)を含む一派との闘いが繰り返されました。
大人になった頼満は、永正15年(1518年)に金刺興春の子・昌春を甲斐に追放。昌春を助ける甲斐の武田信虎(武田信玄の父)とも戦いました。さらに、高遠継宗の子・頼継を降伏させて諏訪地方一帯を統一。享禄元年(1528年)には国境の神戸境川で信虎勢を撃破し、積極的に領国を拡大しました。戦国大名としての諏訪氏は、頼満から始まりました。

◆諏訪頼重 永正13年(1516年)~天文11年(1542年)
享禄3年(1530年)、父である諏訪頼隆が31歳で急死したため、天文8年(1540年)に祖父である頼満から家督を継ぎました。頼満が生きていたころは、甲斐国内へ侵攻していましたが、天文4年(1535年)に和睦。天文9年(1540年)には信虎の三女・禰々を娶り甲斐とは同盟関係になりました。けれども天文10年(1541年)、関東管領の上杉憲政が救援のため信濃佐久郡への出兵すると、頼重は盟約関係にある武田氏に無断で憲政と和睦し、所領を分割。信濃侵攻を本格化しようとしていた武田晴信(信玄)は、これを盟約違反と捉え、翌年諏訪との同盟を破棄して、諏訪への侵攻を開始しました。頼重は武田方に降伏すると同年7月に甲府へ護送され自刃。諏訪惣領家は一時的に滅亡しました。

◆諏訪御料人 享禄2年(1530年)~弘治元年(1555年)
諏訪頼重の娘。実名は不詳で、史料には諏訪御料人(御寮人)・諏訪御前と記されています。とても美しい人だったといわれ、武田晴信による諏訪侵攻の後、天文12年(1543年)または天文14年(1545年)、14歳のときに晴信の側室として迎えられました。敵将である頼重の娘を迎えることに武田家の中に反対論があり、山本勘助が家中を説得したともいわれ、また、禰津元直の養女になったという説もあります。天文15年(1546年)には勝頼を生みました。

歴史小説や時代劇に登場しますが、名前が分からないため、新田次郎の小説『武田信玄』では湖衣姫、井上靖の小説『風林火山』では由布姫と名付けられ、また、長野県諏訪市公認のご当地萌えキャラ「諏訪姫」は、諏訪御料人がモデルとなっています。
→次号は、諏訪氏ゆかりの地をご紹介します。