新着情報

上諏訪温泉しんゆ ~世界が注目したSilk Okaya~

岡谷、製糸業の歴史

絹とは、蚕の繭からとった繊維を繰糸機で製糸した生糸で織った織物のこと。その歴史は古代まで遡り、日本も弥生時代にはすでに絹の製法が中国から渡ってきていたといわれます。養蚕業や製糸業で日本が注目されるようになったのは、明治維新後のこと。明治42年(1909年)には、中国を抜いて世界一の輸出生糸生産国となりました。

諏訪湖を取り囲むように、上諏訪と下諏訪に接する岡谷は、明治初期から生糸の一大生産地として発展してきました。明治政府は輸出品目として生糸を重要視し、明治5年(1872)には、フランス式繰糸機を輸入して群馬県の官営富岡製糸場が操業を開始します。繰糸機とは、煮た繭から糸をとって生糸にする機械のことで、それまで日本ではフランス式とイタリア式の繰糸機を使用していましたが、その三年後に諏訪平野村(現岡谷市)で武居代次郎が双方を折衷した「諏訪式繰糸機」を開発し、中山社を創業します。その結果、高品質でしかも低価格な生糸を生産できるようになりました。「諏訪式繰糸機」は全国で使用され、日本の産業革命に大きく貢献しました。

諏訪湖へは大小合わせて31もの河川が流入しています。中山社は、河川の水を煮繭・繰糸に使い、水車の力を使って小枠に生糸を巻き付けました。当時の諏訪地域では、河川のある中山間地帯に次々と製糸工場が興り、その後「諏訪式繰糸機」が改良されたり、工場の規模が大きくなっていくと、より大量の水と水力が得られる天竜川沿いに製糸工場は移っていきました。こうして諏訪地方には確栄社、協力社、改良社、進行社といった製糸会社が誕生しました。

その中の一つが片倉組、後の片倉製糸紡績 株式会社です。明治 6 年(1873年)、片倉市助は、諏訪郡川岸村(現岡谷市)にある自宅の軒先で製糸業を始めました。横浜開港後、上州地方で開発された、座繰り器(歯車を組み合わせることで繰枠の回転を速め左手で取手を回すと小枠が約5回転する器械)をいち早く取り入れてのスタートでした。

明治10年(1877年)には、片倉市助の長男である片倉兼太郎が、川岸村の天竜川畔に垣外製糸場を開場。その後2,3年のうちに、岡谷での生糸生産高は全国の14~16%を占め、明治17年(1884年)に兼太郎、林倉太郎、 尾沢金左衛門が「開明社」を創設し、生糸出荷額は日本一になりました。 明治20年代には、諏訪地方で生産された生糸は、「信州上一番格」と格付けされ、「普通糸」として日本の生糸格付けの基準規格になり、岡谷は、生糸の一大生産地帯として認められるようになりました。こうして、明治30年(1897年)には、日本での生糸の生産量は世界一となり、明治42年(1909年)には、中国を抜いて世界一の生糸輸出国へと成長。その中で、岡谷で生産された生糸は大正13年(1924年)時には日本全体の35%を占め、Silk Okayaの名は世界中に知られるようになりました。

空室検索 チャットボットに質問
TOPへ戻る