闘病しながらの華々しい活躍

諏訪出身の小説家、平林たい子。プロレタリア文学の雑誌『文芸戦線』に参加する小堀甚二と結婚してからは、『施療室にて』でプロレタリア文学の新進作家として高い評価を得ました。けれども、小堀甚二が所属する組織と自身が目指す女性解放との間に違和感を抱き始めていたたい子は、昭和5年(1930年)、プロレタリア文学者として独立。夫婦関係は続けながらも、一人の芸術家として生きていくことを決めました。

けれども、昭和12年(1937年)に起こった人民戦線事件で、文芸戦線派として評論を書く小堀甚二をかばって拘留されます。たい子は、拘留中に留置場で腹膜炎に肋膜炎を併発。生死の間をさまよいますが、作家仲間である円地文子らが救援運動を行ったおかげで、留置場を出ることができました。その後、数年にわたって闘病生活を送り、みごとな生命力で、奇跡的に回復します。闘病期間は7年ほどともいわれており、その間夫の小堀が看病をしていました。小堀自身も、過労と栄養失調でこの時期に左目を失明。戦争末期には、故郷である諏訪へ疎開し、執筆活動を行う中終戦を迎えました。

戦後は、反共姿勢を強め転向文学の代表的作家ともいわれるようになります。昭和22年(1947年)、『かういふ女』で第1回女流文学者賞を受賞。また、『黒札』、『地底の歌』、『殴られるあいつ』といった任侠小説も執筆し、映画化もされました。昭和30年(1955年)には、夫に隠し子がいたことが判明し離婚。考え方の違いがありはしても、夫を守り続けたたい子でしたが、女中の間に子供を作り、二重生活を送っていた夫を許せずにそれからは独身を貫きます。

昭和32年(1957年)には、女流文学者会会長に就任されたり、長編自伝小説『砂漠の花』を発表するなど、華々しく活躍していましたが、昭和34年(1959年)に小堀甚二が不遇のうちに死亡したころから高血圧や鎖骨カリエス、心臓喘息、糖尿病、乳がんなど、たびたび病魔に襲われるようになりました。たい子はそれでも精力的に小説を執筆し、海外へ旅行していました。そして昭和42年(1967年)には、『秘密』で第7回女流文学賞受賞。その後病気は次第に重くなり、昭和47年(1972年)急性肺炎により死去。没後は、恩賜賞、内閣総理大臣賞、紺綬褒章を受けました。最後まで力をふりしぼって書いた作品は『宮本百合子』でした。

翌年、諏訪市中洲福島区には、平林たい子記念館が設立されました。展示室には居間を再現し、身の回りのものから、作家仲間とのやりとりを示す資料類などが展示されています。入口には、小説のタイトルにもなった「私は生きる」という言葉が刻まれた記念碑があり、激動の人生を生きたたい子の強い意志を感じることができるでしょう。
平林たい子記念館の開館日は日曜日のみですが、諏訪が生んだ偉人の人生に触れてみるのも楽しいでしょう。