諏訪地域に残る老舗味噌蔵 01
今や、出荷量は出荷額とともに全国ナンバーワン、51.3%のシェアを誇る信州味噌。昭和初期の経済恐慌時には、諏訪地方にあった製糸工場が閉鎖され、従業員向けに自家用味噌を作っていた技術で味噌の生産を開始。そのため、現在も松本地域と並び味噌蔵が多い地域として知られています。現在、諏訪周辺には20ほどの味噌蔵があり諏訪湖と周囲の山々の影響による独特の気候の下で、独自の技術を活かした味噌づくりが行われています。
<丸高蔵>
丸高蔵は、寛文2年(1662年)から続く酒蔵である宮坂醸造が、酒造りによって永年培われた醸造技術を「人々の健康に貢献する事業」に使用したいと、大正5年(1916年)高島城三の丸跡に丸髙蔵工場を創業。山梨県鰍沢の酒蔵を移築した高層の堂々とそびえる蔵は、鰍沢蔵と名づけられました。
2年後には東京へ進出。当時はすでに大手の味噌会社が市場を占めており、販売を伸ばすことは難しかったのですが、信州味噌と命名したことで急激に売り上げがアップ。信州で一番という思いを込めて「信州一味噌」で商標出願しましたが、地名は一企業には認められないと却下され、昭和13年(1938年)に「神州一味噌」で認められました。
大正12年(1923年)の関東大震災の後は東京への出荷が大きく伸びたので、昭和7年(1932年)に東京都中野区に工場を設立。さらに戦後の混乱期、東京では信州味噌が定着し、販売もどんどん伸びていきました。
当時は、樽で酒屋さんなどの店に運び「量り売り」をしていました。昭和27年(1952年)には、業界初のビタミン入り味噌を発明。1960年代には小袋詰めが劇的に伸びていきました。その後も、新工場を設立してフリーズドライ事業、業界初のコンピューター制御導入、海外展開。平成28年(2016年)には創業100周年を迎え、「人々の健康に貢献する事業としての神州一味噌」の原点に戻り、時代のニーズに合わせた味噌づくりが行われています。
「神州一味噌」が全国的に知られるようになったのは、昭和38年(1963年)袋詰め神州一味噌の愛称募集を行ってキャラクター「み子ちゃん」を設定し、当時のニューメディアであるテレビコマーシャルでPRをしたことが挙げられます。「しゅしゅぽっぽ、しゅしゅぽっぽ、神州一、しんしゅういち、おーみおつけ!」のコマーシャルソングは皆さんも一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。それから60年以上現在に至るまで、「神州一味噌」は多くの人々に親しまれる存在となりました。
→次号も諏訪の味噌蔵をご紹介します。