知られざる信州味噌の歴史
私たち日本人の食文化の基本といえば、ご飯とお味噌汁。お味噌汁の材料となる味噌は日本人の食事に欠かすことのできない調味料です。古くから伝わる発酵食品の一つであり、近年では、免疫力アップ、疲労回復、消化促進のほか栄養価・旨味成分アップなど、幅広い効果があるとされることから、日本だけでなく海外からも注目されています。
中でも長野県の味噌は、出荷量が29万t、出荷額は734.7億円と、ともに全国ナンバーワン。51.3%のシェアがあり、信州味噌の名で知られ全国各地で消費されています。(令和3年度調べ)
味噌は原料や配合の割合によってそれぞれ味わいが異なり、日本全国でさまざまな種類が作られています。中でも最も大きな違いがあるのは米や麦、豆などの麹の種類。信州味噌は、米麹と大豆、塩でつくる代表的な「米味噌」で、光沢のある山吹色(淡色)をしています。酵母と乳酸菌の働きにより、味はさっぱりとした旨味のある辛口。ふくよかな芳しい香りも人気を集めます。
そもそも、長野県で味噌が作られるようになったのは鎌倉時代まで遡ります。信濃国筑摩郡(現在の松本市)出身の禅僧である心地覚心(しんちかくしん)は宋に渡り味噌の製法を習いました。そして帰国後布教しながら味噌の製法を広めたといわれています。
さらに、戦国時代には武田信玄が行軍用(兵糧)として「川中島溜」を作らせたことで、信州の地で味噌作りが盛んに行われるようになりました。
長野県の味噌が全国的に知られるようになったのは、大正12年(1923年)の関東大震災がきっかけでした。壊滅的な被害を受けた東京では多くの味噌蔵が被災。被害のなかった長野県が救援物資として味噌を贈ったところ、その味わいは評判となり、首都圏市場で急速に発展拡大していきました。
昭和初期の経済恐慌時には、諏訪地方の製糸工場が閉鎖されますが、従業員向けに自家用味噌を作っていた技術で味噌の生産を開始。太平洋戦争で焼け野原となった東京に、再び長野県から味噌を届けたことによって、さらに人気を集めるようになりました。
昭和30年(1955年)には「信州味噌」というブランドが確立。長野県味噌工業協同組合連合会加盟の味噌メーカーにより、長野県内で製造されている味噌だけが、団体商標「信州味噌」の登録が許可となりました。その後も、設立された信州味噌研究所で乳酸菌・酵母の培養、供給など「信州味噌」の品質向上が行われ、各蔵でも時代に合わせた味わいの追求、新商品の開発が行われています。
→ 次回は諏訪の味噌蔵をご紹介します。