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上諏訪温泉しんゆ ~故郷の風景を描き続けた原田泰治 01~

素朴画家誕生までの道のり
美しい自然とかやぶき屋根の家、その中に描かれた人々の暮らし・・・懐かしい日本の原風景を温かなタッチで描き続けた画家、原田泰治。その素朴な作風は国内外の多くのファンに愛されました。

原田泰治は昭和15年(1940年)、長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)に誕生しました。1歳のとき小児麻痺にかかり両足が不自由になり、病気がちだった母親とは3歳のときに死別。父親と新しい母は看板業をしながら4人の子供を育てていましたが、戦争で仕事がなくなり、泰治が4歳のときに下伊那郡伊賀良村(現飯田市)に開拓農民として移住し、それから中学1年生までの10年間を過ごしました。

一家は村を一望する高台に暮らしていました。俯瞰で村を見下ろしていた「鳥の目」のような視点、また小児麻痺の後遺症で駆け巡ることができなかったために足元に咲いている草花を見ていた「虫の目」のような視点は、この頃に育まれたもの。豊かな自然の中で家族とともに過ごしたそこでの生活は、原田泰治の世界の原点になっているといいます。

昭和28年(1953年)に父親が看板業を再開し、諏訪に戻り上諏訪中学校に転入。進学した諏訪実業高校定時制ではポスターコンクールで2度入賞し、グラフィックデザイナーを目指し美大への進学を決意しました。昭和35年(1960年)に武蔵野美術大学洋画科に入学するものの、翌年、武蔵野美術短期大学商業デザイン科に再入学。卒業してからしばらくは東京・銀座のデザイン事務所で働いていましたが、体が不自由な中での通勤ラッシュは難しく、諏訪に戻って、昭和39年(1963年)にホーコードーデザインスタジオを開きました。

展示会を開くうちにデザインが評価され、少しずつ商店の包装紙やマッチのデザインなどの仕事が増えていきました。また、長野県のデザイン展で連続して知事賞を受賞。このとき審査員だったグラフィックデザイナーの福田繁雄からはデザインの素晴らしさを教えてもらいました。またこの頃から、幼少期に暮らした伊賀良村の思い出を描くようになりました。

大きな転機となったのは昭和48年(1973年)、旧ユーゴスラビアの素朴画家イワン・ラブジンについて書いた新聞記事。「心の生計を立てるために描く」という生き方と作品に感銘を受け、生活の柱はグラフィックデザインとして、あくまでも「心の生計を立てるために」純粋に絵を一枚一枚ゆっくりと描いていく姿勢を持ち続けました。そして、『わたしの信州』『草ぶえの詩』が昭和55年(1980年)第29回小学館絵画賞を受賞。素朴画家として多くの人にその名を知られるようになりました。

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