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上諏訪温泉しんゆ ~「東洋のスイス」と呼ばれた諏訪地域01~

諏訪地域における時計産業のはじまり

悠久の時を超えて豊かな水を湛える諏訪湖が広がり、八ヶ岳をはじめとする山々に囲まれ上諏訪温泉や下諏訪温泉など、上質な温泉が湧き出す諏訪地域。諏訪信仰の総本社「諏訪大社」へは毎年多くの人が訪れ、7年に一度行われる御柱祭は地元の人たちが総出で行う大祭となっています。そんな諏訪地域がかつては「東洋のスイス」と呼ばれ、世界中から注目されていたことをご存じでしょうか。

スイスは、ドイツ、フランス、イタリア、オーストリア、リヒテンシュタインに囲まれた中央共和制国家です。永世中立国としても知られ、国内には多くの国際機関の本部が置かれています。面積は日本の九州よりも小さく、4万1290㎢。国土の70%をアルプス山脈とジュラ山脈を占め、4000m級の高山が連なります。古くから時計産業が盛んで、ジュネーブやジュラ山脈では低価格でデザイン性の高い腕時計をはじめ、高級時計が作られてきました。スイスで時計作りが行われるようになったのは、16世紀に起こったフランス宗教改革の際にフランスで弾圧を受けた時計職人たちがスイスのジュネーブに流れたことがきっかけになっています。また、部品の多い時計の製造にはスイスの澄んだ空気と洗浄用のきれいな水が必要で、スイスはその環境的な条件を満たしていたからでした。

日本の諏訪地域で時計の製造が行われるようになったのは昭和10年代のことです。山崎屋時計店(現株式会社ヤマザキ)の店主の山崎久夫氏は、大正時代に服部時計店(現セイコーホールディングス株式会社)に奉公し、関東大震災のために帰郷。先代である父・常次郎氏とともに店を発展させていきました。そして昭和12年の日華事変以降、戦争が長期化していく中、服部時計店の時計を製造していた第二精工舎から、腕時計の組み立てを依頼されました。

当時、諏訪地方では製糸業が衰退し、若い労働力が余っている状態でした。山崎氏はこの時計組み立てを地域産業にしようと考え、昭和17年、第二精工舎の協力工場である有限会社大和工業を設立。当初味噌蔵を改造した粗末な工場でしたが、これをきっかけに第二精工舎の疎開先として諏訪が選ばれました。また、終戦後も第二精工舎諏訪工場が残り、時計の製造が続けられました。

諏訪地方で時計産業が発展したのには、他にも理由がありました。内陸部の寒冷地でスイスとよく似た気候風土だったこと、豪雪地帯で交通の便が悪く仕事が少なかったこと、また働く人々の誠実で辛抱強くねばり強い人柄もスイス人と似ていたことなどが挙げられます。

山崎氏が尽力し、諏訪地域にもたらした時計産業。それが大成功を収め世界的に諏訪地域が「東洋のスイス」と呼ばれるまでには、それほど時間はかかりませんでした。

→次回は時計産業の発展についてご紹介します。

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