新着情報

上諏訪温泉しんゆ~電気炉製鋼の先駆者、土橋長兵衛02~


生涯をかけて新技術に挑み続けた開発者

日本で初めて電気炉製鋼に成功した土橋長兵衛。長兵衛が電気炉製鋼に挑戦した背景には、周囲の影響が大きかったといわれています。特に、長兵衛の兄、土橋八千太(やちた)は、カトリック司祭・天文学者・漢学者です。小学校を卒業したばかりの八千太はパリ外国宣教会の宣教師・ジュル・ラングレーの説教に感激し、明治15年(1882年)にカトリックの洗礼を受けました。上海を経てパリ大学に学び、帰国後は上智大学の創立に関わり学長を務めた人物です。
また、幕末期の10代長兵衛のときには、大日向村茂来山の鉄山開発とたたら製鉄経営にも関与していたことから、長兵衛も国産の金物製造を目指したのではないかといわれています。
明治42年(1909年)に日本で初めて電気炉製鋼に成功した後は、2年後には、社名を亀長電気工場から土橋電気製鋼所に改め、高速度鋼材・特殊鋼の開発を続けました。松本市清水や上伊那郡箕輪町に分工場を増設し、独自の電気炉と外国製の蒸気ハンマーをはじめ、電気製鋼炉3基、電気製銑炉6基、汽缶3基などを設置しました。工場の総面積は合計8200坪にもおよび、大正前期の1918年(大正7年)の第一次世界大戦までには全盛期を迎えました。当時長兵衛は長野県の多額納税者として名前を連ねていました。

第一次世界大戦が始まると、高速度鋼材は呉海軍工廠、陸軍砲兵工廠に納入され、第一次世界大戦で輸入品が途絶する中、事業はさらに拡大していきました。けれども昭和恐慌の中で破産に至り、製鋼業から撤退。その後、信濃銀行の財産管理に転職しましたが、鶴見の日本電解製鉄所で電解鉄の研究を続け「回転式円筒陰極ヲ使用スル電解鉄の製造法」などで合計9件の特許を得ました。特に「電解鉄の製造方法に関する技術」が知られ、今でも幅広く使用されています。
その後も「百歳までに人造金を必ず完成する」と夢を抱き、晩年になるまで電気冶金の研究を続け、そのために財産を多く投じたと言われます。そして、昭和14年(1939年)に72歳の生涯を閉じました。
生涯を通じて新しい技術に挑み、明治時代の製鉄業の発展に寄与した土橋長兵衛。長兵衛の構想と努力がなければ、現在の日本の製鉄技術は大きく異なるものになっていたかもしれません。上諏訪に生まれ育ち、そして自宅の敷地内から電気炉製鋼の開発を始めた長兵衛の歴史は、技術に対する情熱と挑戦の象徴として後世に語り継がれています。
現在、亀長電気工場があった松本市島内には、電気炉製鋼発祥の碑があり、当時の功績を今に伝えています。

当サイトが一番お得空室検索 花火関連プランのご案内
TOPへ戻る