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上諏訪温泉しんゆ ~岩波書店の創業者、岩波茂雄の人生02~

大きな影響を与えた母の存在

試験を放棄したことにより落第し、失恋もした茂雄は、野尻湖のほとりで人生について考え、死を見つめる孤独な生活を送っていました。心配した母が訪れたのは、10日目、明治36年(1903年)7月23日のことでした。
「風雨が激しく荒れた晩、神殿の板の間に横になりながら、私はこの大自然の怒りをじっと聞いていました。ふと雨戸の隙間が、ボーッと明るくなったと思うと、黒い人影が入ってきました。驚いて起き上がると、それはびしょぬれになった、母でした。無理に船頭にたのんで舟を出し、嵐をおかしてやって来たのです。」

茂雄を東京へ遊学させるために母はいかに窮乏に堪え、親戚や近隣の嘲笑を浴びてきたか、その上、もし茂雄が学業を放棄し、親に先き立つようなことがあったら、母はどうやって生きていけばいいのかと、懇々とさとしました。そして、母の願いはただ一つ、茂雄が立派な人間になることだと……。その日親子は一夜を語り明かしたといわれます。
「母の姿を見た私は、母の愛に動かされて心ならずもこの愛着の島を去ることにしました。……島と別れる時は地に伏して号泣しました。」

その一か月後、茂雄はもう一度第一高等学校に戻りますが、もう一度試験を放棄して落第したことにより除籍されました。この時期、茂雄は思い悩みながらも、安部能成、作家の阿部次郎、哲学者の和辻哲郎、夏目漱石研究の第一人者である小宮豊隆、そして、岩波書店の経営に参画し、後に文相や学習院院長を務めた安部能成など、多くの友人と交流をもちました。

明治38年(1905年)、再起して東京帝国大学哲学科選科に入学。その年の7月には、後に妻となる赤石ヨシの家に下宿をしました。翌年、ヨシと結婚しますが、学生結婚のため、ヨシが内職をしながら生活の面倒を見てくれていました。家計が苦しい中、友人が入れ替わり押しかけてくるため、ヨシは大変な苦労をしたともいわれます。

岩波が卒業する十数日前の、明治41年(1908年)6月、母が脳溢血によって他界。15歳のときに父親を亡くした茂雄と母親とのつながりは一層深かったといわれ、人生に苦悩している時期も、「母親のことを思うとじっとしていられない、勉強せねばならないというあせりがあった」と友人にも話しています。

茂雄は母の訓言を『惝怳録』に記しています。
「正しき道に進め。人に親切にしろ。正直にしろ。決して一言も虚言を云うな。学校のことを勉強しろ。体を健康にする養生せよ。ですぎるな。」
茂雄はすべてこの訓に従っていたとはいえませんが、強い意志、親切、義侠、また世間に対する積極的な態度は、母から受け継いだものだと考えられます。

→次号も、岩波茂雄の人生についてご紹介します。

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